憲法改正の気運が高まっています。

いま、憲法改正が話題になっています。戦後70年近くにもわたって、憲法がそのままの形で存置されているという日本の事例は、国際的にも極めて珍しい、ということは良く言われることです。とりわけ2013年時点で争点となっているのは、96条の改正問題ですね。

 

この96条というのは、憲法改正の手続き自体について憲法内で定める条文ですけれども、改正手続きのハードルをより低くし、憲法の修正可能性をより高めようという意図があります。

 

憲法というのは、そもそも私たちが定める私たち自身についてのルール、すなわち「法律」の内容に関して、その内容の自由度を設定する「法律についての法律」と言うべきものです。近代国家というのは、特定個人や特定集団の恣意的な意思によってではなく、集合的な意思を集約させるある形式的な手続きによって定められた意思決定(=法律)が、その社会を規制する唯一の特権的ポジションを占める、という「法治国家」という枠組みを採用しています。

 

しかし、法治国家というのは、そのことがそのまま民主的国家と同義とはなりませんし、自由主義的国家と同義にもなりません。

 

これは良く言われることですが、ナチスドイツの台頭や、日本における治安維持法のような法律の制定というのは、システマティックで(しかも民主的な)プロセスで選定された対象であるにも関わらず、その政策や法内容が、民主制や人々の自由を著しく制約するという帰結をもたらしました。憲法というのは、このような法治のパラドクスに対する、制御装置としての役割を果たしています。

 

私たちは、私たち自身に適用されるルールを決定する権利があるが、私たちはその際に、思いもよらない危険を冒したり、その記憶を忘れたりもするので、しっかりと記録し、システム化しましょうという意思がそこにあるわけです。このような制御機能を前提とし、本項では、昨今の憲法改正論議が、この制御機能としての要件にどう影響を及ぼすのか、についてのおおまかなまとめ用のコンテンツとなっています。

憲法9条について

憲法改正問題というのは、錯綜的な問題系です。憲法の条文自体は、実際に見てみると、そこまで複雑なことが書かれているわけではありません。全体で、せいぜい計103条の、短い文章です。

 

ネット上でも簡単に閲覧できますが、ちょっとしたブログ記事のほうが、よっぽど文章が長いのではないか、と思ってしまうほどです。しかし、というか、だからこそ、と言うか、この「短い」文章の「解釈」を巡って、多様な議論がなされてきました。

 

憲法は、その性質からして法律の制定内容を「抽象的に」方向付けるものでありますから、そこに解釈の余地が不可避的に生じてきます。条文の文章が短ければ、なおさらのこととなります。そして、憲法というのは、国内に向けたルールですけれども、他国、とりわけ米国に対する個別的な交渉によって、その解釈が水路づけられてきた、という側面もあり、同時に、その解釈に則った形で、新たな条約の締結が結ばれる、というサイクルの中にあります。

 

つまり、条文自体の内容はシンプルであっても、シンプルだからこそ多様な解釈の余地が生まれ、なおかつその多様な解釈のうちの、ある特定のものが実際の交渉の前提として用いられ、交渉の「事実性」がそこに積み重ねられていっているのです。交渉というのは、「約束事」の連続で成り立っています。一度約束を結べば、基本的に、その約束は守らなければなりません。国家間の約束事というのは、それを反故にしたからといっても、超国家的な裁判機構が(国際紛争などの部分的な状況をのぞき)機能することがありませんから、即座に制裁を被る、ということはありません。

 

ただ、国家の「信用」の問題に関わります。「信用」というのは抽象的ですが、要するに、次回以降の交渉で自国にとって有利な条件が認められなかったり、経済活動において、そのイメージの悪さゆえ、損失を被る可能性があるということですね。

 

つまり、いくら条文の解釈を字面通りに行ったところで、そのような効力を持つ「約束事」の前には、無力であることが多いのです。本サイトでは、憲法改正、とりわけ9条改正を巡るそのような「解釈と交渉の錯綜」についても、総覧的にチェックをしていきたいと思います。